三原だるまの職人として、
佐木島で365日だるまと向き合っておられる
三原だるま保存育成会代表の鳥生悦郎(とりゅう えつろう)さんに
だるまとの出会いや想いについて、お話を伺いました。


鳥生さんのこれまでの経歴、三原だるまに出会うまでを教えてください

私は以前、造船関係の仕事をしていたのですが、その後、工業系の仕事で下請けを自営で5,6人で始めました。それから平成12年にトライアスロンの準備作業で、横断幕を貼ろうと脚立の上に上がって作業している時、バランスを崩し落下して、脊髄を損傷し、両足が不自由になって、車椅子の生活になりました。
そして、平成21年のことだったと思います。それまでだるま作りは先代の久保先生を中心に、三原市内でシルバーの方が作っていたらしいのですが、その人たちが作られなくなって、次にだるまを作れる方を三原の方で探していたそうです。そして三原におる人が佐木島の知人に伝え、その人が島の会議の中で、「だるまを作る人を探しよるんじゃけど、誰かおらんじゃろうか。」と言って、会議の雑談の中で私の名前が上がったというのがことの始まりでした。

なるほど、そのような経緯があったんですね。その話を聞いたのは、鳥生さんがいくつ位の時だったのですか?

12年前からなので、69歳じゃったんかね。話を聞いてみて、制限や期限が細かく決まっているというような感じでは無しに、自分の思うように気楽にやらせてもらえるのでしたら考えても良いですとお話ししたんです。足も不自由ですし、あまり負担になるようなことを言われてしまうのは難しいと、正直にお話したら、それはできる範囲でやってもらえたら良いと。そういうことでしたら少しやってみようということになったんです。

なるほど…そうだったのですね。後継者になるというのは、とっても勇気がいる決断だったのではないのでしょうか。

うーん、、そういう感覚ではなかったですね。初めはだるまを作って販売するという感覚で、趣味というか。自分らで自分らのものを作ればいいかと漠然と思っていたんです。ですが先生が早くに亡くなって、それで後継者がいないというのがはっきりして。「どうしようか…。」と思いました。ですから、「継承する」とか「後継者」とかいう考えは初めは全くありませんでした。久保先生が亡くなられてから初めて考えましたね。
現在はそのような形で郷土民藝を継承して、制作販売をして。神明市にむけてだるまを作る、というのが使命だと思っています。久保先生は創作販売を主に作っておられていましたが、私は「神明さん用の数を作らんと」と、創作的な制作はほとんどしていません。注文があれば作る程度で、自分から新しいだるまを作ってという気持ちはあっても、ほとんどしていませんね。

神明市に向けただるまはどのような流れで作られているのでしょうか。

今、私は365日家にいる時はいつもだるまを作っているような感じで、数が幾らか貯まったら、女性の方4名に色をつけて仕上げていただいています。色を塗る前までの段階は私一人で、毎日コツコツと作っています。女性の方は「明日昼間から集まってやりましょうか」と連絡をして、その時々で集まって皆さんで仕上げていただいています。

先ほど365日作っていると仰っていましたが、趣味で~という気持ちで始められたものを毎日するというのはすごいことだと思います。今はどんな気持ちで制作されているんでしょうか。

確かにその通りですね。私は足も不自由ですので街を歩くこともできないですし、家の中に四六時中おって、映画やテレビ、新聞やパソコンなどで365日生活していても、歳をとっていくばかりですしね。手先でできるものでしたらやっていこうと。とにかく、神明さんに何個出そうという目標があるもので。当初はそういう目標は全然なかったのですが、神明市で販売をしていくうちに、いつも2日めの昼にはなくなってしまって、お客さんが「もうなくなってしまったんですか」という状況なので、とにかく数を作って、一人でも多くの方に手渡したいという気持ちを一年間思い続けて制作しています。

その中でまた別注のだるま制作のお話が入ってくることもあるのですよね。

はい。そういった依頼が入ってくると、普段のことを忘れて、ああしようかこうしようかと制作に没頭してしまいます。寝ても覚めても、もうそのことばかり考えてしまいますね。(苦笑)それはできませんと断ることは、なるべく言いたくないのでね。納期的に余裕があれば出来る限り頑張って作ろうと思っています。三原駅の駅長さんのだるまさんに帽子を作る、や、船の上にだるまさんを乗せてくださいといった、原型を変えていかなければならないようなものは、没頭してしまって小一ヶ月ずっと試行錯誤を重ねていましたね。

だるまを作り続けていま、三原だるまについてどんな想いがありますか?

自分の考えではなく、とにかく三原の伝統的なだるまを守り、作っていかないと、という気持ちが一番にあります。自分が作りたいものは二の次に、自分の考えは二の次にして。とにかく伝統的な「三原だるま」を、手作りでできるだけたくさん作って、届けたい。だるまさんにお願いをしたいという人の、お願いが少しでも叶うように。一人でも多くの方の気持ちが休まれば、と思っています。「三原だるま」を守ってやらにゃいけんと。とはいえ、手作りですので、制作する数に限りがありますが、、、。

鳥生さん以外の方が広めていくような活動をすることはどう思われていますか?

それはそれで、いいと思いますよ。「 三原だるま 」という名前で将来的に知名度が上がり、数が生産されるように、県外へも出て行くようになったら、他の産地のだるまさんのように名前が知れ渡るので、それは良いと思いますけれどもね。

三原だるまと三原のこれからについて思うことを教えてください。

私はだるまに関わるまで、だるまについても、三原だるまについても全然知りませんでした。タコとだるまの町というのを三原市が打ち出しているのは知っていましたが、だるまについては全然興味もなかったし、聞き流していました。私は20代の頃から植木が好きなので、神明市も主に植木を見て歩いていました。怪我をしてからは、大きな鉢の手入れができなくなり、元の家でも段差が多くて車椅子での生活ができず、過ごせなくなって。生活様式は180度変わってしまいました。
今は、三原だるまというものを一人でも多くの人に知ってもらいたい。知名度をあげたいという気持ちが一番です。そのためにオリジナルのだるまの注文があればできるだけ断らず作っていこうという気持ちでいます。

ー2021.10.9